日本連盟 総長 奥島 孝康
スカウト人生をふり返ってみると、少なくともぼく自身はこんな愉快で楽しい人生はないと思っている。とはいうものの、「自然を愛し、偶然を楽しみ、悠然と生きる」という境地に達するにはまだまだというのがぼくの現在である。汗は人を強くする
スカウトは野外生活を訓練の中心に据えることによって自らを鍛える。つまり、野外訓練により、肉体的にも精神的にも鍛えられる。そこが学校生活とは根本的に異なる。つまり「汗」を流すのである。もっとも、汗といっても冷や汗という汗があるが、ここでいう汗とは、身体から流す熱い労働の汗のことである。他者のために流す汗は、自分のために流す汗とは異なり、他者の重みを代わって背負うことを意味し、それだけ余分に力を出すことであり、それだけ強くなることを意味すると考えられる。つまり、他者の荷物を引き受けただけ余計な力を使うことになり、自分を鍛えていることになる。たしかに、外見的には他者のために力を使っているように思えるが、見方を変えれば、それだけ自分を鍛えていることにもなる。 余分の力を出すことのできる者が、その余分な力を出したところで、失うものはない。それどころか、余分な力を出した者は鍛えられさえする。つまり、強くなるのである。そういう意味では、他人のために働く者は、なにも失うことがないうえに、自らが鍛えられることになる。それが強くなるということである。そういうわけで、他者のために汗を流す者は自分が強くなる、といってもよいと考えるべきであろう。涙は人を優しくする
涙は悲しいときに流すことが多いが、感動して流すことも少なくない。ぼくたちは、青春多感なとき、つまりスカウトの年齢のころは、なんでもないことに感動して涙を流すことが少なくない。ところが、素直になれない年頃でもあって、素直に涙を流すことができないことも少なくない。その意味では、スカウト年齢の頃は、なかなかむずかしい「年頃」でもある。 情緒の不安的なスカウト年齢であるだけに、スカウトたちはある意味でむずかしい。つまり、感動を素直に表現できない場合がありうる。しかし、人生でもっとも多感なこの時期のスカウトたちの社会に対する、あるいは仲間に対する素直な思いのたけを、その行動に反映してほしい。それができれば、おそらく、スカウトたちの行動はずっと優しさに満ちたものとなるであろう。スカウトたちの社会や仲間に対する優しい心情は、きっとよく仲間や社会に伝えてくれることであろう。 人は涙によってさらに人として優しくなり、よりよい関係性を結ぶことができるに違いない。涙くらい、人の素直な感情をストレートに伝えるものはない。涙は流すだけが涙ではない。涙はこらえることにより、もっと大粒の涙となる。年寄りとなって流す後悔の涙にならないよう、今から気持ちよく涙を流すことに努めるくらいの余裕を心がけてみよう。そして…… 汗と涙の中にスカウト活動がある
スカウトの汗と涙と……そして、ほんの少しだけの「歌声」を加えてみよう。宇和島第1隊(和霊隊)に所属していたころ、ぼくはいつも歌声の中にいた。といっても、美声にかこまれていたわけではない。むしろその逆である。しかし、居心地が良かった。いま活動の現場には歌声がない。どうしてだろうか。下手だから遠慮しているわけでもなければ、仲間を不愉快にするからというわけでもない。しかし、少々言い過ぎかもしれないが、誰も歌など唄いたがらないのである。 しかし、ぼくたちのときは、歌唱指導が班訓練の大切な一環だった。隊活動の最中において歌声のきかれないときはなかった。ぼくには、歌声のない訓練というものは信じられない。スカウトの訓練は、すべて歌声の中にあった。それがぼくたちの日常であり、だから毎日愉快であり、楽しいということが訓練のすべてであった。 そして、スカウトはスカウトらしくなる。スカウトらしい人間となる。ボーイスカウト日本連盟機関誌「SCOUTING」2022年1月号にも掲載している内容です