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はじめに 昨2020年度から、ぼくが日本連盟の「総長」に就任することになり、後任の理事長に岡谷篤一氏が就任いたしました。ご存知のとおり、「総長」の職は渡邉昭総長以来15 年間空席となっておりましたが、どういうわけかぼくが就任することになりました。誠に、不適切人事と考える方も多いとは存じますが、そうなった以上、全身全霊もってこの負託に応える決意でありますので、どうぞよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。なお、新たに就任された岡谷理事長は愛知連盟の理事長および連盟長を歴任されたばかりか、スカウト歴上いわば「たたきあげ」のつわものであり、これ以上の適任者はないと思われる方です。   ミッション 昨年以来、ボーイスカウト日本連盟は、未曾有の試練に見舞われている。いうまでもなく「新型コロナ」の来襲によるものである。この奇禍ともいうべき悲劇は日本のみならず、世界全体に及び、すべての社会・経済の基本をおびやかすものであり、その結果、スカウト運動そのものにも重大なる被害を及ぼしていることは周知のところといわねばならない。かかる事態を前にわれわれスカウトがどう対応するべきかを考えてみたところで、どうなるものでもないが、はっきりしていることは一点だけである。すなわち国や社会が要請しているコロナ対策のために進んで全員協力していくことにほかならない。 もともとスカウト運動の原点は、「立派な市民(グッド・シチズン)」を育成することである。そのことを、初代総長の後藤新平は自治三訣(「人のお世話にならぬよう」「人のお世話をするよう」「そして酬いを求めぬよう」)と易しい言葉で語っている。つまり、これが立派な「市民」というもののあり方である。簡単に言えば、市民による自治とは、自助、共助、公助によって成り立つものであり、スカウトはその意味で市民として立派なモデルたるべきであるというのである。コロナ問題についても然り。ウィズ・コロナの生活に理想的なモデルとならなければならないことをも意味するのである。 この考え方は、もともと、イギリスの古い諺にあり、すなわち「ノーブレス・オブリージュ」(貴族たる者は義務を負う)にある。「貴族は豊かな生活を楽しんでいる。それゆえ、平時においては誰よりも重い負担を負うべきで、公共のためには多額の寄付などすべてを負担し、戦時においては、最も矢弾のあたる最前線に立たねばならぬ」という考え方である。そして、これこそが、イギリスにおける「公共」というものの考え方の基調であった。だからこそ、民主主義という観念はイギリスにおいて育ったのだといわれる。こうして、イギリスでは民主主義を支える市民という観念が根づいていき、イギリスで発生した「シチズン」( 市民)という観念の具体的人間像のモデルとしてスカウト運動が発生したのであった。われわれがスカウト運動に取り組むのは、「市民」としての原点を求めるための一方法としてであることを忘れてはならない。 パッション ミッションを支えるものはパッションである。しかし、ミッションを経済的に支えるものはパッションではない。そこに問題は常に伏在する。すでに述べたように、ミッションを支えるものは、イギリスにおいても常に貴族の心意気であった。その意味で、スカウトというミッションを支えるためにはスカウトの無償の心意気というパッションが必要である。つまり、スカウト運動は基本的には無償の献身によって支えられており、そこに基本的問題があるといえばある。しかし、本当の問題はそのことを問題とするかどうかである。とりわけ、スカウト運動にはパッションを求められるからである。したがって、スカウト運動の指導者には、無償の献身というパッションが求められるのである。そこがこの運動の痛みであるし、限界である。しかし、この問題は乗り越えられねばならない。少なくとも限界まではパッションを持続しなければならない。 理論と運動の違いはよく知られている。理論は真理を追求するが、運動は理想を追求する。追求する理想が大きければ大きいほど、その運動には困難がともなう。もとより、真理の追求にも限界はある。しかし、真理の追求は事実の追求であるが、理想の追求は事実の追求ではない。限界が想定できるものと、できないものとの相違である。つまり、理想の追求には限界がない上、生きる上で、学問上の追求と政治上の追求のような違いがある。理想と事実とのようにパッションの対象が異なる。 スカウト運動の対象は、ある意味でこれでよいという限界がない。限界がないばかりか、その運動の後退さえある。したがって、後退を阻止しようとすれば、どちらにも体力気力の限界につきあたる。つまり、パッションの持続力の限界である。それに、現在遭遇しているパッションの持続力の限界である。ではどうするか。いうまでもなく、若い世代に期待するほかない。つまり、世代交代である。たとえば、現在のスカウトの中には、宇宙飛行士の野口聡一氏のような方もいる。いろいろ国難は山積しているが、スカウト運動の本来の希望は決して小さくない、というより、むしろ大きいとさえ思われる。なぜなら、「グッド・シチズン」に対する期待はますます大きくなることはあっても、決して小さくなることはないと考えるからである。つまり、「ベター・ワールド」という人間の希望が小さくなるはずはないからである。くどくなるかもしれないが、生きるということは、よりよい社会をめざすことであり、スカウトがその先頭に立つべきだと考えるからである。その意味で、スカウト運動にはパッションが不可欠であり、パッションなき者にスカウトたる資格はない。 結びに代えて コロナの時代には、スカウト運動にとって致命的時代であるように思えます。しかし、スカウト運動に存在意義があるとするなら、こういう時代だからこそスカウトらしい生き方を模索し、スカウトらしく生きることを考えるべきでしょう。スカウトの誇りにかけて、われわれはこの時代を立派に生き抜くことを誓おうではありませんか。いま考えるべきことは、アフター・コロナもさることながら、ウィズ・コロナを考え、コロナとの「共生」の中で、スカウトらしい生き方を精一杯するよう、努めるべきでしょう。そのあり方は、ともかくコロナ禍害を最小に止めるために、国や社会の求める要請を立派に果たすことにほかなりません。そして、アフター・コロナに備えることでありましょう。 そのためには、スカウトのミッションをしっかり認識し、その目的達成のためのパッションをしっかり自覚することが大切ではないでしょうか。「ミッション」が「パッション」に支えられて初めてスカウト運動は運動としての生命をもちうるのです。スカウト諸君の奮起を期待します。

ボーイスカウト日本連盟機関誌「SCOUTING」2021年1月号より

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